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パチンコ屋との馴れ初め
パチンコ屋との馴れ初め
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まこと@オフミーさん
オフミー主催者 - 投稿日:2020/04/11 16:43
当時の私は職場が都内にあったので、交通の便を考えて両親とは離れて暮らしていたのだが、
父が大病を患い、長期入院をすることになった。
私の家は三人兄弟で
長兄のラオウは住所不定無職で連絡がつかず
次兄のトキは実家から離れたところで世帯をもっていたため
ジャギである私が、60過ぎの母が一人にならないようにと一緒に住むことになった。
ケンシロウとかいう都合の良い男は現実にはいない。
同居を始めた当初は、母子二人では食べられない量の晩飯を作ったり、父の見舞い帰りにレストランで外食したりとそれなりに楽しくやっていた。
しかししばらくすると口数も減り、間もなく
「晩御飯を作るのがおっくうなので、外で食べて来てほしい」
と言われた。
職場と実家はかなり距離があって、家に着くのは毎日21時過ぎ
いつもならばその時間には寝ていた母が音を上げるのも無理はない
私は特に不満もなく了解した。
違和感を感じたのは仕事中に母が救急車で搬送されたとき。
母は息苦しさを訴えて救急車を呼んだが、診断したところ年齢の割には健康なくらいで、言われているような症状はなかったとのこと。
平たく言うと仮病だった。
昼間一人でいることと父が居ない不安が重なって、疎外感を感じているようだった。
かまってほしかったのだ。
その後、私が外出していると仕事中だろうと通勤中だろうと、お構いなしに電話で連絡してくるようになった。
私も最初は真面目に応対していたが、苛立ちがつのり、次第に声を荒げるようになった。
週末になれば出掛けようとする私に母が文句を言い、それを起点にまたケンカ。
「こんなはずじゃなかったのに…」
自己嫌悪に陥りながら、コンビニまでの道のりの途中にあるホールで足を止めた。
当時の私はパチンコ屋に数える程度しか行ったことがなくて、専門紙なんて購入したこともなかった。
なんなら
「パチンコ屋の客なんて」
とバカにしていたフシもあったと思う。
ただ週末に自宅に居続けるのは息苦しかった。
母との生活に、私の方が先にまいってしまうのではないかと。
逃げ場を求めるように私はホールの中に入り、当時の機種で唯一名前を知っていた『大海物語』に座った。
さすがに魚群が走れば熱いとかサムの存在くらいは知っていたが、その程度。
サンドに札を入れ、貸玉ボタンを押し、ゆっくりとハンドルをひねる。
目の前には流れる液晶と銀玉と同じフレーズを繰り返すパチンコ台。
ぼんやりと液晶を眺めていると、ささくれ立った気持ちが穏やかになっていった。
左に逃げていく魚介類を眺めながら、不思議と冷静さを取り戻していった。
母と正面から向き合わないといけないと、知らず知らず自分自身にかけていたプレッシャーに気づいた。
自分はたまらずホールに逃げ込んだけど
別に問題のすべてを放り出したわけじゃない。
求められているのは、父が帰ってくるまで母との生活を繋ぐことなんだ。
自分と母が仲良くなければいけない理由はない。
そこからは毎日母とケンカをして過ごした。
思い返せば中学生の頃にも同じことをしていたのだから、慣れたものだった。
本気で私にムカついたのか、やがて仕事中の連絡も来なくなった。
父が退院すると同時に私は再び家を出た。
この件もあって母とは折り合いが悪いまま死別してしまったが、その事に後悔はない。
晩年は明るく過ごしていたと父から聞いている。
「アグネス・ラムで思い出すMom」
そう考えながら、低貸しのアグネスラムを8個保留ためたり、ためなかったりしていた。
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まこと@オフミーさんの
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このコラムへのコメント(2 件)
家族の問題で、逃げるように。そんな居場所探しでホールに。実は、依存問題を抱えている方にもこのような背景を持っているケースが多くあります。
まことさんは、改めて家族との付き合い方を見直すことができた(永遠に逃げなくて良くなった)のと、人となりというかパチンコへの考え方もあって、そうはなっていませんが。
なんて背景とかも含めて考えられる、むっちゃ深い話。ありがとうございます!
母ちゃんとパチンコ行くんじゃないんだって思いました笑