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④社会的責任について

★フリーテーマ | コラム

④社会的責任について

プロフィール画像
アリオリ侍:Reさん
がんばった
投稿日:2023/01/21 23:57

人は、真似をする生き物です。
これまで真似をしたことがないという人は、どこにも居ないでしょう。


===*注*===
この記事は出来立てホヤホヤです。
自分で設定した締め切りを守るために仮にアップしました。
画像の挿入やセルフ校正は1月末までに行う予定です

→1月末の予定でしたが、ここの修正に充てる時間(2時間)をお台帳に注いでしまいました。

人生の2.5%は何グラム?
https://pachiseven.jp/columns/column_detail/20019#contents

もう少々お待ちください。

=========


・「真似」について


人は、真似て学び、真似てよりよく生きようとします。
真似はコミュニケーションの技法としても有用らしく、
「カメレオン効果」というものがあるそうです。

https://psychmuseum.jp/show_room/chameleon/


人は、その場にいる人の仕草などを無意識に真似をしており、
その行為を周りの風景と同色化するカメレオンに見立てて、
「カメレオン効果」と言うそうです。
「カメレオン効果」は、真似をする側も、真似される側も、
どちらも親近の感情として無意識のうちに表現し、受け取っているのだそうです。

たしかに、好きな人がハマってる事は「自分もやってみたい」と思いますし、
自分がハマっている事を友達もハマってくれたら、とても嬉しいですよね。


食事の時にも、自分ひとりだと何でも雑に食べますが、
一緒に食べている相手が上品に食器を使って丁寧に食べていたら、
それに合わせて背伸びをする様な事もあります。

そういった真似に関する情動は、心理学的に研究されるだけでなく、
脳科学的なアプローチでも証明されてきています。

霊長類などの高等生物の脳内には「ミラーニューロン」とよばれる、神経細胞があるそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3#:~:text=%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3%EF%BC%88%E8%8B%B1%3A%20Mirror%20neuron,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8B%E3%82%89%E5%90%8D%E4%BB%98%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82

なぜ人は真似るのか?という問いに対しての究極の回答は、
どうやらこのあたりにヒントがありそうです。


この細胞のおかげで今の人類の繁栄があるのかは分かりませんが、
少なくとも「真似る」という能力は、
人間がよりよく生きていくために必要不可欠という点に異論の余地は無いでしょう。

私もあらゆる場面で真似をしながら生きています。
仕事の仕方や、絵の描き方、料理の献立、服装や髪型、物事のとらえ方、鼻歌の選曲。
私の一挙手一投足のほぼすべては、他のだれかの真似で出来ているのかもしれません。

【1+1=2】のような簡単な計算ひとつとっても、
それは親や学校などで学び、覚えたことです。

「学ぶ」はかつて「まねぶ」と読まれていました。
その事から「真似る」は「学ぶ=まねぶ」の語源である、というような説もあるようです。

どうやらその説は、根拠に乏しいようですが。
https://extraordinary.cloud/learn-imitation.html

しかしながら、学ぶことが「真似る」ことに極めて近い行為であるのは確かです。


たとえばこれを読んでいる貴方は、
前述のミラーニューロン細胞についてご存知でしたでしょうか。
もしも知らなかったのであれば、
あなたはミラーニューロン細胞について学んだ事になります。
今後何かの機会で、
ミラーニューロン細胞について話したり書いたりする事があったとしたら、
それは広義の意味でこの記事を「真似」したことに該当するのではないでしょうか。

【1+1=2】という法則を覚えて、
テストで【1+1=?】という問題が出たときに【2】と回答するのもそうです。
これを応用して【2+2=4】とするのも、同様に「真似」だと私は思います。

この様に「真似」を広い意味で捉えていくと、
社会のあらゆるものが「真似」で構成されている事に気付きます。
電気もガスも、電車も飛行機も、パソコンも電卓も、
みんな「真似」がなければ生まれなかったであろうものたちです。

私たちは無意識のうちに「真似」をする生き物ですが、
意識せずとも「真似」に支えられて生活している生き物でもあったのです。




・「真似」と判断力


とはいえ、「真似」は良い作用だけをもたらす訳ではありません。

直近のニュースでは、こんな事がありました。

「女児7人に性的暴行の罪などで起訴 大阪の元病院職員」
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230120/2000070152.html

以下引用です。

女子児童7人をカッターナイフで脅して、性的暴行を加えたなどとして(中略)
「成人だと抵抗されて通報されると思ったので、小学生を狙った。以前見た漫画をまねした」などと供述


このニュースに対してネット上では論争が起こっている様ですが、
自分は「論」といえるほどのものは持ち合わせてないので、
それとは距離を置きたいと思います。

私は専門家ではないし、情報源は警察発表上の供述ですし、
人様に意見を押し付けられるだけの資格も立場もありませんから。

この記事を選んだのは単にトレンドに上がっていたからではありますが、
なにより自分の体験談をお伝えする例として非常に良いと思ったからです。

……私は中学生1年生のとき「3×3EYES」という漫画にハマりました。


その頃、すでに流行は下火になっていた作品ですが、
たまたま近所のゴミ捨て場に最新刊までのセットが捨ててあったのです。
それを自宅に持って帰って読み漁り、結果見事にどハマり。

それまでジャンプなどの少年誌しか読んでいなかった当時の自分が、
青年誌という新たなジャンルに目覚めてしまったという、
当時を振り返るとなんだか複雑な心境になるイベントでした。
(↑は時効ですが、ゴミ置き場のゴミを持って帰るのは違法です!)

どハマりした結果、私は「主人公の必殺技を真似る」という、THE中二病的症状を発病してしまいます。

3×3EYESの主人公は、不死身の肉体と獣魔術を武器に戦います。
獣魔術には、ドラゴンボールの元気玉やビックバンアタックの様な派手さはありません。
しかし、「土爪(トウチャオ)」「光牙(コァンヤア)」といった
センス溢れるネーミングや、地味な技を駆使しながら戦う主人公に燃えたものです。

登下校中、周りに人が居ないのを確認してから地面に手を着いて
「とうちゃおー!」
とか叫んでたんですよ。
今思い出してもめっちゃくっちゃ恥ずかしい!、です。
(そして振り返ると同級生が居たりするわけです)

こんな恥ずかしい想い出を挙げようと思ったら、わんさかたまさかたっぷりと出てきます。

某グルグルの影響で地面に魔法陣を描いてみたり、
恋愛小説の主人公を真似たコミュニケーションを女子に実践してみたり、
好きなゲームのキャラクターを模写してオリキャラの元にしたり、
漫画のキャラがやってた何気ない仕草が日常の習慣になってしまったり。

自分を形作ってきたものや、血肉となった経験の多くは、
アニメ・漫画・ゲームから摂取してきました。
それも「真似」という手法を用いて、自分の中に取り込んできました。

他人がどうかはわかりません。
自分は、「真似」を抜きにして作品に触れては来なかったし、
これからも「真似」をしていくと思います。

ただし、何を「真似る」かは選びます。

大人になるということは、
今の私が「土爪(トウチャオ)」する事が無いのと同じ様に、
「真似ていいのか、悪いのか」を選べる様になるという事かもしれません。

ここでは描けないような、「真似」による後悔はたくさんあります。
人を傷つけてしまった「真似」も数知れません。

作品の中では当然のように行われていても、
現実で同じことを「真似る」のはリスクがあるのだと、
傷つきながらも学んできた……というのもまた、私の人生だったのです。

「真似」をして人を傷つけた、という意味において、
前述の容疑者が本当に漫画の真似をしたなら、彼と私は同じです。
もちろん犯罪と言われるレベルの「真似」はしていないとは思います。
(ゴミ置き場の漫画は持ち帰りましたが)

繰り返しますが、この事件に関して私は何か主張があるわけではありません。

しかし「真似」にはリスクがあり、
そして「真似」をして良いのかには判断力が必要であることを、
個人的に思い出し、常に自戒が必要なのだとこの事件を見て思い至ったのでした。


-----

・社会的責任


本題です。

「社会的責任」という言葉をご紹介します。

「社会的責任」とは、
「個人や組織は、社会をより良くするための役目と責任がある」という意味です。


今のパチンコ業界についてずっと考え続けてきて、私が辿り着いたのがこの言葉でした。

5.9号機や初期6号機の不遇、コロナ禍、部材や燃料費の高騰、5号機の撤去、スマスロの登場。
それらの帰結としての、パチンコホール閉店ラッシュ。
この数年間に濃縮されてやってきた極大の波は、多くの人柱を捧げてもなお、いまだ業界にくすぶり続けています。

この記事は今回で4回目となりますが、
1〜3回目では、そういった昨今の情勢についてお伝えしてきました。

1回目は、閉店ラッシュに追い込まれている中小ホールの現状について。
2回目は、ホールにおける金銭的な動きとその捉え方について。
3回目は、閉店ラッシュの責任について。

このような流れのなかで、
四回目である今回は「責任の所在」がメインテーマです。

波を起こした「責任」は誰にあるのか?
波を防げなかった「責任」は誰にあるのか?

「責任」を問うため、私は自分なりに調べてみたのですが、
ついぞ決定的な「責任の在り処」を長らく発見することは出来ませんでした。


しかしやがて、ひとつの考えに思い至りました。
それは「パチンコホールに関わるものは、無数にあるのだ」という気付きから始まります。

パチンコホールは、経営者と客だけでは成り立ちません。
機械や景品を作り、それを売り、あるいは仲介し、手続きし、運ぶ業者。
玉やメダルなど、ホール運営に不可欠なシステムを構築する技術や人。
パチンコ・パチスロ台の解説やレビューをするライターや雑誌。
来店演者や実践動画をアップするyoutuber。
ホールの存在を好ましく思ったり思わなかったりする近隣住民。
金を出し、土地を用意し、建物を設計図から作り上げた人たち。
そして「客」といっても、その人の数の分だけ多様性をもった消費者たち。
そんな無数の人や組織があってはじめて、パチンコホールが存在しています。

これはもちろんパチンコホールに限った話ではなく、
ほとんどの企業や団体で「関係者が無数に存在する」のは共通しています。

そのことを、企業ではよく
「ステークホルダー(利害関係者)」という言葉で表現しています。
そしてその言葉は「企業の社会的責任(CSR)」によく紐づけられます。

「企業の社会的責任」とは、組織活動が社会に与える影響に責任をもち、ステークホルダーの要求になるべく応えていく義務がある、という事です。
この「企業の社会的責任」は、
省略して「CSR(Corporate Social Responsibility)」と呼ばれる事が多いです。

CSRは、その企業が果たす社会的責任を明確化したものです。
倫理綱領などと共にCSRを大きく掲げている企業は多いです。

例えば大手ホールであるマルハンのHPにも、「CSR」のページがあり、車いすの寄贈や献血活動などをアピールしています。
https://www.maruhan.co.jp/csr/

ある程度の規模の企業であれば「CSR」は必ず存在するのです。
それほど「CSR」は一般的に定着しているのです。





しかし私は、この「CSR=企業の社会的責任」という考え方に、
弱点があると思いました。
なぜなら、この考え方では、
個人あるいは「企業に属さない個人」は「責任」を負わないからです。

パチンコホールの「ステークホルダー」を考えた時、その大部分を個人=客が占めます。
客の動向いかんが、パチンコホールの経営を大きく左右します。
パチンコホールを金銭的に支えているのは、ホールに打ちに来る客です。

「企業の社会的責任」の論理では、客は責任を負いません。
しかし現実問題として、パチンコホールは客が支えています。
その様な大きな役割を果たしている客が、
「パチンコホールについて責任を負う」という倫理は無いのでしょうか?


それについて考えるヒントが「社会的責任」という考え方です。
「企業の」という接頭語を取っただけですが、その射程が大きく広がったのがお判りでしょうか。

「社会的責任」とは、冒頭に紹介した通り、
「個人や組織は、社会をより良くするための役目と責任がある」という意味です。

「社会をより良くする」という部分はとても抽象的であり、
人それぞれ違った見解になると思います。
また、議論を尽くしたとて、答えがでるとは限らないものです。


しかしそれは捉えようによっては、「より良い社会」がどんな社会かだなんて、
決まった答えがないのだという事でもあります。
ですから「より良い社会」を、
「中小のパチンコホールが元気な社会」と捉える事も、
「たくさんのパチンコファンにあふれた世界」だとするのも自由だという事です。

みなさんは、どんな「より良い社会」を想像しましたか?
みなさんの日々の行動は、「より良い社会」に向けて歩んでいるものになっていますか?

いずれにせよ、私たちは「よりよい社会」について考える必要があり、
そして同時に「役目と責任」も発生している……というのが、
「社会的責任」という哲学である。私はそう解釈しました。

私たちはよく「消費者」という立場におしこめられ、「役目と責任」を負わない習慣を自然と身につけてしまいがちです。
また、それを負うべきではないという考え方もあるのかもしれません。

しかし私たちは「市場競争」「需要と供給」という様な安直な言葉で、
世界からモノが消えていくのを甘んじて受け入れ、
妥協することに馴れてしまってはいないでしょうか。

私は、今のパチンコ業界の惨状を目の当たりにしたことで、
そういった消費者的姿勢に甘んじられない事もあるのだと気付きました。

私が大好きだったアイスや、便利で使っていた文房具、愛していたゲームの会社。


それらが世界から消えていくのは、
私が「役目と責任」を果たせていなかったからなのかもしれないと、
考えるようになりました。


しかしその「役目と責任」を個人で成し遂げられる状況は、とても限られています。
ですから「より多くの人」と協力する事が求められます。

同じ考えの者を募り、同じ目的に向かって、それぞれの力を発揮する。
そういう状況を作り上げる事は、きっと社会的責任を全うするための上策であり、
けっして下策などではないと私は思います。

この狭い日本の中だけでも、そうやって多くの人が集まることで、
物事に変化をもたらした事例は事欠かないではないですか。

-----

「責任の在り処」という話に戻ります。

「社会的責任」という考え方を適用すれば、閉店ラッシュの「責任の在り処」は、「パチンコホールに閉店してほしくない全ての人・組織の責任」という事になります。

これを逆説的に捉えてみます。
「パチンコホールに閉店してほしくない全ての人・組織」が「責任を放棄」してしまうと、そのパチンコホールは閉店しても仕方がないという事にならないでしょうか。

パチンコホールは、無数の人や組織があって初めて存在します。
そして特に「そこにパチンコホールがあってほしい」と望む人たちが、
役目と責任を果たす事によって、存続出来ているという事になります。

その役目と責任の果たし方は、ホールに通うだけではありません。
ホールのことをSNSで紹介したり、ホールの設置台をオススメしたり、ホールのスタッフに優しい言葉をかけたりと、枚挙にいとまがありません。

しかしこのパチンコ業界に関わる人々=ステークホルダーは、
パチンコホールに対して、その役目と責任を果たして来たのでしょうか。
パチンコやスロットで遊ぶわたしたちは、どうでしょうか。


ここであらためて「社会的責任」という視点を用いて、
パチンコホールに関わる人々について考えたいと思います。


・それぞれの社会的責任

あらためて「社会的責任」を問うにあたり、
その定義でいう所の「より良い社会」とは何かを決めなくてはいけません。

ここではその「よりよい社会」を、
「パチンコホールが閉店ラッシュしない社会」としたいと思います。

実際には「閉店ラッシュ」は起きてしまった訳ですから、
その責任を問うていく形になります。

中には「そんな無茶苦茶な」と思うものもあるかもしれませんが、
あくまで「閉店ラッシュの責任」という視点にこだわろうと思います。



パチンコ・パチスロメーカーの「社会的責任」はどうでしょうか。

機歴や抱き合わせ、中古売買のペナルティなどの手法は噂に聞きます。
1台あたりの価格も年々高くなっています。
規則改正の呼び水となってしまうような、射幸性の高い台を世に出しました。
遊戯人口が減る中で、新しい顧客を生み出す台を出せていたでしょうか。
ユーザーの期待に応え、原価をペイできる稼働貢献を果たした台を多く作れたでしょうか。
中小ホールの負担を軽減し、閉店ラッシュを防ぐために尽力したのでしょうか。



マスコミやネットニュースなどの「社会的責任」はどうでしょうか。

パチンコに対するマイナスイメージを増長させる取り上げ方をしていなかったでしょうか。
初期コロナ禍の際、休業に協力しないホールを殊更に取り上げていました。
パチンコ業界で起きている事に注目し、冷静に取り上げていたでしょうか。
中小ホールの現状を報道し、閉店ラッシュの危機を問題提起したでしょうか。



警察(国家公安委員会)の「社会的責任」はどうでしょうか。

警察が定めた遊技機規則の改正によって、大幅な台の入れ替えが必要になりました。
規則改正の判断は正しかったのでしょうか。
台の入れ替え手続きに関する手数料は、中小ホールの負担になっていないでしょうか。
広告規制や設置台の厳しい管理規則は、中小ホールの可能性を狭めていないでしょうか。
中小ホールの閉店が続出してしまうリスクを、規則改正時に想定しなかったのでしょうか。



パチンコライターや、その媒体(雑誌・WEBサイト)はどうでしょうか。

読者・視聴者に「打ってみたい」と思わせる事ができていたでしょうか。
遊戯人口を増やせるような記事を作ってきたでしょうか。
ユーザーの多くが直情的な意見を発する中で、理知的な姿勢を貫けたでしょうか。
安くない額でホールが購入した台を、豊かな視点で紹介し、稼働に貢献したでしょうか。
出玉以外の言葉で、台やホールの魅力を語って来れたでしょうか。
中小ホールを取材し、課題を明らかにし、その存続のために筆を尽くしたでしょうか。


来店演者や、Youtuberはどうでしょうか。

中小ホールの稼働に貢献出来ていたでしょうか。
大規模ホールと中小ホールの格差を埋められたでしょうか。
パチンコファン以外の人もホールに足を運びたいと思わせる事ができたでしょうか。
ホールの良さを、出玉や客付き以外の言葉で語っていたでしょうか。
視聴者数や人気取りを優先し、業界のイメージを損なわなかったでしょうか。
閉店ラッシュの危機を問題視し、業界人として出来る事に取り組み、発信したでしょうか。


パチンコホール自身はどうでしょうか。

導入した台に自信を持ち、客に楽しく遊んでもらうための工夫をしたでしょうか。
娯楽産業が多岐に広がっている中で、ホールの強味を活かして営業したでしょうか。
快適な遊技環境を構築し、できうる限りのサービスと接遇を徹底したでしょうか。
自身のホールが客にとっての居場所である事を自覚し、その声に耳を傾けてたでしょうか。
個々の店舗の問題ではなく、閉店危機を業界全体の課題として連帯してきたでしょうか。




箇条書きでまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか。
列挙するにしても紙幅が足りず、
しかもそのひとつひとつに研究する価値があります。

なぜならば、同じことを二度と繰り返さないためです。

大事なことなのでもう一度伝えます。
責任の問いかけが必要なのは、同じことを二度と繰り返さないためです。


パチンコ業界は、4号機から5号機への移行期に、
同じような閉店ラッシュを経験しました。
その時の責任を明確にし、業界に関わる人々がその責任を果たしていたならば、
今回の閉店ラッシュの被害を最小限抑える事は出来たかもしれません。

しかしながら、私が最も責任を感じるべきと考える対象は、
ここまでに挙げた中にはありません。

挙げてきた対象は「企業の社会的責任」の範疇にすぎません。
いずれも企業や、それに類した人達です。

閉店ラッシュの責任を最も重く受け止め、
同じことを繰り返さないようにするため、「社会的責任」を取らなくてはいけない人たち。

それは、私たちユーザーではないでしょうか。

私たちユーザーは、メーカーが一生懸命作った台をクソ台と平気で罵り、それを咎めようともしてきませんでした。
私たちユーザーは、マスコミやネットニュースに対して、パチンコ産業に関する報道を要求せず、その報道価値を高めず、マイナスイメージの発信に対して対峙しませんでした。
私たちユーザーは、警察による規則に文句をつけるばかりで、その枠内で楽しむ事を謳わず、パチンコ・パチスロの普遍的な価値を見失いました。
私たちユーザーは、ライターや媒体に対し、評論的価値・報道的価値のある情報提供を望まず、実利的な情報に偏狭したものばかりを求めました。
私たちユーザーは、来店演者がイベント的示唆となっている現状に甘んじてホール間格差を冗長させ、Youtuberの歯に衣着せぬ物言いを賛美しつけ上がらせました。
私たちユーザーは、パチンコホールの設定や釘が良くないと叩き、入っていても自身の台が出ないと文句を言い、中小ホールの苦境から目を反らし、出玉予測や晒し屋を真に受け、それらを批判しませんでした。

もちろん「私はこれをした」「そんなことはしなかった」と、
おっしゃりたい方も多いでしょう。

しかし、大多数のユーザーが「社会的責任」を関知せず、
「無責任」な言動をしつづけ、
「無責任な言動をするユーザー」を放置してきた結果が、
この閉店ラッシュなのです。

もしもこれを読んでいるあなたが「パチンコホールが閉店ラッシュしない社会」を望んでおり、
「社会的責任」という考え方に照したとき、
あなたは役目と責任を果たせなかったことになるのです。

そしてそれは、私も同じことです。
私も、役目と責任を果たせなかったのです。

だからこそ、私は私の果たせなかった役目と責任において、
この文章を書いています。



-----

「社会的責任」を突き詰めて考えていくと、
だんだんと「企業」とか「組織」がおぼろげになっていきました。


どういう事かというと、企業がどんなに良い製品をつくろうとも、
それを支持し、役目と責任を果たそうとする者がいなければ、
その製品は早晩消えてしまいます。


つまり、企業も、企業が作った製品も、企業のみでは成り立たないという事です。
「需要と供給」の様な考え方は大前提だとしても、です。


たとえば、一時的に「需要」が極端に減った商品が、
その後再販されることなく消えていくのは、ありふれた出来事です。
しかしそれを食い止めうるのは、
やはり「社会的責任」であり、「私たち」なのではないでしょうか。


そう考えていくと、「企業」の輪郭がだんだんとぼやけて行くのです。

「企業」は、「企業」のみでは成り立たない。
「企業」とは、
「社会的責任」を果たそうとする人たちによって支えられている。

それを分かりやすい言葉で言い換えると、
「企業」とは、私たちの「共有財産」であると言えないでしょうか。

もちろん企業には経営者がおり、株主がいます。
企業を活かすも殺すも、かれら次第でしょう。


ましてや、パチンコ産業にはたくさんの企業がかかわっており、
私たちユーザーが愛するホールやメーカー、雑誌や縁者さんなどが沢山あります。

しかし一方で、彼らを活かすのも殺すのもまた、
「社会的責任」にまつわる人々=私たちである。
私はそう考えるようになりました。



-------


私たちは「真似」をする生き物です。

しかし世の中に「真似」できるものはありふれており、
その中には、「真似」すべきでないものも含まれています。

だから、私たちはなるべくより良いものを選び取り、
それを真似をしようと試みているように思います。

ところで、「真似」をする対象は、行為だけに限りません。
感情も真似をする事があるのです。

誰かの感情を「真似」することを、共感といいます。
共感とは、
辞典によると『他人の考え、主張、感情を、自分もその通りだと感じること』だそうです。

その共感は、情動的共感性と、認知的共感性の2つに分けられるそうです。
https://jwu-psychology.jp/column/post-7.html



情動的共感性とは、相手の感情を自分も写し取ること。
認知的共感性とは、相手の感情を理解すること。

この2つの共感は、一方のみが起こる事もあれば、
同時に起こる事もあるのだそうです。

例えば、「ペットが死んでしまって悲しい」という人が目の前に居たとします。
それを聞いて、あなたが同じようにペットの喪失感を味わい、悲しんだとしたら、
それは情動的共感です。

一方で、目の前の人は悲しんでいるのだという事を理解するに留まり、
「悲しい」という同じ感情を共有しなかったのであれば、
それは認知的共感だということです。

心理学の研究では、前者は自分の近くにいて「見える」「分かる」人たちに抱く事が多く、
後者は自分に関心が無かったり、接する機会が少ない人に抱く事が多いそうです。


飛行機事故のニュースが流れてきたとして、
「日本人が100人亡くなった」と「外国人が100人亡くなった」と聞いた時、
多くの日本人が前者に対してより情動的共感を抱くでしょうし、
逆に後者に対しては認知的共感に留まるでしょう。


では、情動的共感と認知的共感のどちらが良いかいうと、
必ずしも一方が良いとも言えないそうです。

なぜなら、情動的共感のみに頼ると、近しい人達のみを優先して考えがちになり、
認知的共感のみだと、冷酷な判断を下しがちになってしまうでしょう。


あなたがSNSや動画サイトを閲覧しているとき、
ネットの向こうにいる他者に向かって抱いている感情は、
情動的共感と認知的共感のどちらでしょうか?

仲のいいフォロワーさんや、
推しのYoutuberの喜怒哀楽に対して、
あなたはどんな【共感=感情を「真似て」】いるでしょうか。

おそらく、情動的に感情を「真似」出来た時のほうが、
気持ちよくなれているのではないでしょうか。

たとえば、実践動画で激熱展開に喜ぶ演者をみて、
自分も一緒に興奮した事はあるはずです。
そしてそうやって情動的に感情を「真似」できる動画の方が見ていて楽しいし、
そういう人の動画を主にチェックしているのではないでしょうか。

しかしそれは一方で、危険も孕んでいるのだということが、
前述の記事に書かれています。

以下引用です。

まったく知らない人や、目の前にいない人がどんなに辛い状況にいたとしても、私たちは情動的には共感しません。しかし、社会問題のほとんどは、自分たちとは直接の関わりのないところで生じています。(中略)
共感性は、もともと敵対的な関係にある場合には、より敵対的な行動を引き起こすことすらある


なるほど確かに私たちユーザーの多くにとって、
中小ホールの危機的状況は”自分たちとは直接の関わりのないところ”であり、
それどころか「設定が悪い」「釘が締まってる」などと罵って、
ホールと敵対していました。


仲のいいフォロワーが「新台打ったけどクソ台だった!」と書き込んでいたとして、
あなたはその新台を打とうと思うでしょうか。

少なくとも、「打ちたい」という感情はそれで沸いては来ないでしょう。


問題は、そのフォロワーの言葉はあなただけでなく、
多くの人たちに同じように届いていていて、
中にはその「クソ台」に対して情動的共感を抱き、
感情を「真似」してしまう人が生産されてしまうことです。

それはホールへの言葉でも、メーカーへの言葉でも、同じことです。
もっと言えば、動画配信者であったり、雑誌の記事であったり、
パチ7の自由帳であっても同様です。


「真似」にはリスクがあり、
そして「真似」をして良いのかには判断力が必要である
誰しもがその判断力を有している訳ではありません。

我々は消費者である以上、言論は自由であることが前提です。
しかし私たちが責任のない言葉を放ち、それを「真似る」に任せておいた結果が、
いま現実に提示されているパチンコ業界です。


「自由には責任が伴う」という言葉がありますが、
私たちは中小ホールの閉店ラッシュという形で、責任を取っています。


中には「そんな潰れるようなホールなんかに行かないよ」というユーザーもいるかもしれません。
しかしひとつの種が絶滅すると生態系全体が大きく変わってしまうように、
だれしも何かしらの形で責任をとらされている様な気がしてならないのです。



----



この記事では、「してはいけなかったこと」ばかりを列挙してきました。
それでは、私たちはいったい、どんな言葉を使っていけばいいのでしょうか。
どうすれば「社会的責任」を果たせるでしょうか。

次の稿にて、自分の考えをご紹介したいと思います。



----


1月に入って、また閉店の報がありました。
とてもとても、お世話になったホールです。


力不足で申し訳ありません。
本当に、申し訳ありません。




続く。

3

アリオリ侍:Reさんの

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