- パチセブントップ
- コミュニティ
- パチ7自由帳トップ|ブログコミュニティ
- コラム(ブログ)詳細
【本怖三店⑨】元始、パチンコは遊技であった
【本怖三店⑨】元始、パチンコは遊技であった
-
権田マンさん
男は黙って「呑む・打つ・書く」 - 投稿日:2021/01/06 21:17
【結論】
・「パチンコは遊技」は、「ごまかし」でも「イメージアップ戦略」でもない。
・「遊技であったパチンコに、賭博要素が入り込み、今ではそちらが主流になった」のが正しい。
・つまり「パチンコは【本来は】遊技」が正確な表現。
と私のようなド素人のユーザーは思います(無責任)。
※以下、細かい用語に自信が無い素人話が続きます
------------------------------------------
【普通のパチンコ「普通機」】
皆さんは「パチンコはどんなものか?」と言われたら、どんな物を想像しますか?
おそらく「ヘソに入って当たって数字が揃ったら、アタッカーが開いて、玉が大量に入ってそれよりも多い玉が出てくる」ものを想像するでしょう。
実はこれ、風営法が最初に想定していたパチンコではありません。
風営法でパチンコが規制された当初のパチンコは「入賞口や非電動式チューリップ等の組み合わせで少しずつ玉が増えていくもの」でした。
大当たりなんて物は無く、入賞口に玉が入ったらチューリップが開いて玉がそこそこ入ってそこそこ出てくる、そんな素朴なものでした。
そして、「いかにたくさんチューリップに玉を入れるか」でストロークや打ち方を工夫し技を磨く、まさに『遊技』だったのです。手打ち式なんかは、まさに腕の見せどころだったのです。
その始まりは正村ゲージですが、これを語るとニ部作になりかねないのでパス。下手すりゃ三部作&外伝&復活篇。
とにかく、本当に素朴で、射幸性とは無関係な、まさに庶民の娯楽でした。
素朴も素朴、あんまり素朴過ぎてインベーダーゲームにパチンコ屋が駆逐されそうになり、こち亀の両さんが「パチンコを卒業(!)して、これからはゲーセンだ!」と言ってしまうほどの物でした。今だったら逆に「ゲーセンを卒業してパチンコ」でしょうね。
---------------------
※余談ですが、パチンコ史ができるとしたら、その第一級史料を私は「漫画」だと思っています。特にこち亀は長年続いていたこともあり、世間からのイメージの変化が自然と表現されています。
また、ある年代までは「サラリーマンの娯楽」あるいは「庶民的な物を表す記号」としてパチンコを(換金描写の有無は全く関係なく)頻繁に登場させてましたが、それ以降は出てきません。この変化も正直な世間や庶民からのイメージの反映なのでしょうか?
ちなみに漫画の神様も昔(1952年頃)のパチンコに熱中して、身の回りの物をパチンコで揃えたという逸話があります。さすが一流、何をやっても一流。ベレー帽は伊達じゃない。
---------------------
そして、この素朴なシステムのパチンコは「普通機」と呼ばれるようになります。「普通」という名称から分かるように、本来はこちらが主流だったのです。
-------------------------------------------
【宇宙人襲来〈インベーダーショック〉】
1978年に有名なスペースインベーダーが登場。まさに「宇宙人襲来」という感じで、日本に熱狂的なブームを巻き起こしました。そのとばっちりを受けたのが、「景品が多いアナログなゲーセン」レベルで素朴な遊技だったパチンコ。数ははっきりと分かりませんが、相当な数のホールが駆逐されたそうです。
-------------------------------------------
【フィーバー〈熱狂〉の時代】
そんなインベーダーの襲来からパチンコ業界を救ったのが我らが地球防衛軍EDF!
・・・ではなく、三共のフィーバー(80年)でした。
この台の特徴はズバリ、
「ヘソに入って数字が揃ったら当たって、アタッカーが開いて、玉が大量に入ってそれよりも多い玉が出てくる」
つまり、今の主流パチンコ台の元祖というわけです。システムはアナログな機械式ドラムで数字が揃ったら当たりと少し違いますが、ほぼ同じです。
これに日本中が大興奮、まさに熱狂。今までチャリンチョロだった出玉が、いきなりジャララララとなって出てくるわけです。当った瞬間に自分で「フィィィバァァァ」と叫んでしまいそうです。
出玉ドバババ、脳汁ドバババ、ジャンジャンバリバリ、出ます出します出させます。「えらく 出玉のある フィーバー」でEDFです。
そして各メーカーは似たようなシステムのパチンコ機の製造を始めたのです。
その功績を称え、普通機が衰退して区別する必要が無い今でも、三共のパチンコ機にはF、すなわちフィーバーが付けられているのです(CRFやPF)。
この「数字が揃ってたくさん玉が出る」システムは、俗名ではフィーバー機と呼ばれます。しかし、フィーバーが三共の商標で使えないので、一般的にはデジパチやセブン機と呼ばれます。とりあえず以後はセブン機で統一。
-------------------------------------------
【まとめ】
このセブン機の登場により、パチンコ業界は盛り返しました。そしてCR機の登場も関係して普通機は衰退し、セブン機がパチンコの主流となったのです。その結果が売上30兆円産業。
しかし、それは同時に「偶然性に左右される」という賭博要素がパチンコで強まる結果となりました。技で増やすより、オスイチ等の運要素で増やすような代物になったのでわけです。
そしてこれは、射幸心の高まりと当局による抑制の繰り返しという、パチンコ業界の逃れられぬ宿痾を生みだしたのです。
【簡単な年表】
1948 正村ゲージが登場
19?? のちに普通機と呼ばれるパチンコが登場
(1954前後)
1954 風営法にパチンコの文言が追加
1978 スペースインベーダーが登場、危うくパチンコ屋が消滅しそうになる
1980 フィーバー(三共)が発売、一大ブームとなる。
~そしてパチンコ業界は「熱狂」の時代へとなる~
※実際にはその後にセブン機の規制だの一発台だのまた規制だの、そして保留連現金機の成長と取り締まりから確変が認められたCR機の普及だのがあっての30兆円産業なのですが、同時進行も多くまとめにくい上に、キナ臭い内容にせざるを無いのでパス。
とりあえず
①フィーバー(三共)の誕生でパチンコは変わった。
②パチンコが風営法の対象となったのは、それ以前のこと。
はテストに出ます。何のだよ(笑)
あと正村ゲージは欠かせません。ちなみに私が正村ゲージを始めて知ったのは、第一級史料である「こち亀」です。あの漫画は本当に「遊びに真面目」だから扱いに困る。
〈了〉
5
権田マンさんの
共有する
このコラムへのコメント(9 件)
ついでに。
過去にアップしたやつです
https://pachiseven.jp/columns/column_detail/17232#contents
部屋を片付けていたら出て来た当時の雑誌の切り抜き。
まあ盛り上がりましたね、当時は。
紙媒体が無いのですが、wikiによるとそれまでは難色を示すホールが多かったけれど『新潟県長岡市のエース電研直営店「パチンコ白鳥」が一気に123台設置したところ、立ち見がでるほど客が殺到した。』らしいですね。
宣伝目的も含めて、三共側がお願いして置いて貰ったのかもしれませんね。なんせ123台も。
やはりそうでしたか!
ある資料に「3ヶ月で撤去」とありましたが、次のフィーバーが出たのが82年で違和感があったのが解決しました。
「V入賞が続けばラウンドが永遠に続く」という文字だけでスペックを見ると実感がわきませんが、そういう当時の声が聞けると生々しくて嬉しいです。まさに生きた資料です。
長文、ありがとうございます。こちらが感謝したいくらいです。
初代は新潟県からでしたっけ?
地方でテストしたのかな?
確率は1/500?
いえいえ3ヶ月どころか結構長い間設置されてましたよ初代は。
当時は30秒アタッカー開放中にV入ればラウンド制限無し。お店の定量まで一直線でした。段々過激になって行って、ブリキのバケツ持って来て、内側に赤いテープ貼ってあるところまで来ると強制的に台裏から電源落とすなんて時代。
最初3000個打ち止めみたいなところが、最後は1万個くらいになり、規制。2代目タコフィーバーは30秒10ラウンドでした。釘によりますが、店により2500個から最大4000個くらいのまで差がありましたね。
長文失礼しました
初代は3ヶ月で撤去されたらしいので、打てる期間が短くてもインパクトがでかかったようです。まるでミリオンゴッド。
今見ればマイルドですが、当時としては爆裂機だったんでしょうね。
そうそう。
だから「当たって揃う」んじゃなくて、「揃って当たる」ですよね。
制御がデジタルでも抽選はアナログだから、フィーバーの系譜と考えるとデジパチよりもセブン機の方が呼び方としては私は好きですね。今を考えるとデジパチの方が良いのでしょうが。
なんて偉そうな事を書いてますが、80年代だと生まれる前なので、実際のフィーバー旋風を目撃できてない(笑)
したが777と出ても、上に7が停止しないと大当りにならないとか。
この頃はシマの端にある機種プレートに「超特電」と表記されていた店舗もありましたね。